「肩書き付きの友達」しかいなかったのだ


自分には友達がいないという気分で生きているが、別にまったくいないわけではないし、いなかったわけでもない。

小中学校ではクラスで話せる人は何人もいたし、放課後に遊んでもいた。高校でも部活の人とは仲良くしていたつもりだ。私は彼らを「友達」だと認識していた。

だが、それらの人々が今何をしているのか、私は知らない。なぜなら何の連絡も取っていないからだ。中学以前はスマホを持っていなかったから連絡できないのは当たり前だが、高校以降は連絡可能なのにも関わらず取っていない。

では、彼らは友達ではなかったのだろうか? 

いや、そうではない。確かに友達ではあった。

友達ではあったのだが、それは「肩書き付きの友達」とでも言うべきものであった。ここでいう肩書きとは、「部活の友達」と言うときの「部活の」の部分である。

私には肩書き付きの友達しかいなかったし、いない。なんの肩書もない純粋な「友達」というものはいなかった。

それらの何が違うのか。例えば、部活で出会った人が肩書きなしの「友達」ならば、部活に関係なく一緒に遊びに行ったり、部活を引退しても関係が続くだろう。けれど私の場合、部活を引退すると遊ばなくなるし、そもそも当時から学校の外では部活関連のイベントでしか会わなかった。学校で一緒に遊んでいた「クラスの友達」も、クラス替えすると遊ばなくなるし、仮にクラス替え後に関係が続いたとしても卒業のタイミングでは切れてしまう。

このような人間関係は、「部活」という共通点にすべてを依拠しているのであり、引退によって「部活」というアイデンティティを失うと友情は「期限切れ」になる。これを「部活の」という肩書きがついていると表現するのである。本来の「友達」という言葉には、ひとりの人間とひとりの人間の関わりというニュアンスがあるように思うが、肩書き付きの友達は、役割対役割の関係、その程度でしかない。

このことを意識してかせずか、私は誰かに友達のことを話すとき、無意識に「中学の友達」「高校のときの部活の友達」のような言い方をしてしまう。別にその後にその中学特有の話や部活特有の話が出てくるわけでもないので、完全に無駄な情報なのだが、ただ「友達」というのは、どうしても何かが違う気がしてしまうのだ。

SNSやマッチングアプリの興隆により、インスタントな関係が増えたと叫ばれる現代社会だが、人によっては、それら以前のリアル社会においてもインスタントな関係しか築けない人がいる。