知性という呪い

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千本槍みなも@ナタクラゲ

太古の昔、人類は悪魔とある取引をした。莫大な人口と寿命を与える代わりに、迷う義務を課したのだ。


人生に目的もないし、人類にも目的はないと思える。ただ、それで地球が沸騰したり子どもが餓死するのを放置してもいいとは思えない。

しかし考えてみると、そもそも目的がないなら地球が沸騰するほど働かなくてもいいし、子どもが餓死するほど争う必要もないわけだ。

結局のところ、「目的がないことに気付くのが目的」という屁理屈的な結論が最も本質に近いのかもしれない。

目的がない、ただ"在る"だけの世界に回帰する、これを目的にしてもいいのかもしれない。

振り返ってみると、近年の自分の思想的な基盤は「人はただ楽しむだけでいい、そうではなく労働などして苦しまないと生きていけない現状は変えるべき」というものだった。同時に誰もがそうであるべきだから、今弱い立場の人も見捨てるべきではないという考え。

しかしそれは、資本による技術の発展によって自動的になされるものなのだろうか?あるいは、階級やアイデンティティによる終わりのない闘争によって得られるものなのだろうか?

科学は迷い続けることを選び、政治も迷い続けることを選んだ。おそらく、「よりよい未来のためには迷い続ける必要がある」というのが、歴史の中で得られた一つの結論なのだろう。しかしそれは、「ただ生きるだけ」を許してくれるのだろうか?

思うにこれは知性という名の呪いなのだ。人類が図らずも得てしまった知性は、人口的な繁栄と寿命の延長をもたらした。しかしそれと引き換えに課せられたものはあまりに大きい。

前は、皆がカプセルみたいなのに入って、各々パーソナライズされたメタバースに閉じこもるのが一番幸せだと想像していた。究極的には脳に電極を差し込んで快楽中枢を程よく刺激するのでもいいと思っていた。これらもある種「ただ生きるだけ」ではある。

あるいは、今まで文明をすべて捨てて、地を這う獣に戻り、ただ生きるだけでよかった時代に戻るべきか? そんな事が可能なのか?

この呪われた世界から1人抜けして、自分だけ「ただ生きるだけ」を実践することもできる。けれども、それでは世界は呪われたままだ。

人類は「ただ生きるだけ」を許されていないのだろうか?