生まれて初めて献血に行ったら、「自分=物質」なのを悟った

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千本槍みなも@ナタクラゲ

人生初の献血に行った。

ついでに、人生で初めて血液型を知った。だからなんだという話ではあるが、今まで未確定だったものが確定した、もう戻れないんだという感覚があった。小さい頃に自分が「予想」してたのと違ったという衝撃もあった。

血液型性格診断とか、あれは害悪だと思う。占いは別にいい。占いはそもそも根拠がないのが合意されているし、日によって変わるからだ。性格は固定的だし、根拠があるかのように見せかけてくる。それは疑似科学であって個人の楽しみという問題ではない。

「血液型と性格の関係も今後証明されるかもしれない」。確かにそうだ。しかし、「火曜日にカレーを食べると、地球の自転が僅かに遅くなる」ことも、同じく今後証明されるかもしれない、ということを忘れてはならない。

ところで、最近は血液型と病気のリスクの関連が知られているらしい。こちらはちゃんと科学的に検証しているので、解釈を誤らなければ普通に有用だ。それとて血液型だけで決まるわけではなさそうだが。

Q. で? 何型だったんですか?
A. なぜ言う必要があるのですか?

閑話休題。

自分から伸びたチューブの先のパックに赤い液体が貯まるのを見て、思ったことがある。

消化管の中は「体外」なのだと高校の時習った。ちくわの穴の中がちくわではないように、口から肛門までの1本の管である消化管は体外であると。本当の体内は組織や血管なのだと。

じゃあ、今血管で繋がれているこのチューブとパックはなんなんだ? これは、今この瞬間だけ「体内」になっているのか?

そしてもう一つ思ったこと。これは後になって気づいた。ああ、私とは物質に過ぎないのだ、と。

私たちはふだん、意識や心というものに重きを置きすぎているのかもしれない。だが、その血液の、見た目だけでわかる明らかな質量は、自分の中に物質が流れていることを自覚させるのには充分だった。そして、それとともに感じる若干「くらむ」感じが、その失われた質量と結びついたとき、自分が物質にすぎないことを理解したのだ。

普段血を流しても同じことを思わないのは、その量が少ないからだろうか。汗や排泄で同じことを思わないのは、あまりに日常的すぎるからだろうか。

私は平均的な人よりも「自分=物質」であることを信じていると思う。一方で、平均的な人よりもそれを「理解して」はいないと思う。理屈としてはわかっても、腹落ちしなかったのだ。ところが献血をしたことで、その腹落ちに一歩近づいた。

これだけで人生観が180度変わったわけではないが、重要な一歩になったような気がする。

皆さんも是非献血を。