お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの~知的財産の欺瞞について~

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千本槍みなも@ナタクラゲ

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」。アメリカの作家マーク・トウェインが言ったとされる言葉だ。しかし、どうもこの手の話に限れば、韻を踏むどころか本当に繰り返しているようにしか感じられない。

知的財産という概念は15世紀ごろに「発明」され、以後500年以上にわたり世界(特に先進国)のルールとして君臨しつづけてきた。その中で、おびただしい回数の訴訟やトラブルが起きたことは想像に難くない。宇宙にある星の数ほどではないが、地球上の砂粒の数くらいはあるのではないか。

知的財産は長らく「創造者の利益を守り、もって社会の発展に貢献する」という建前で正当化されつづけてきた。したがって知的財産を尊重しない人は社会の裏切り者、人類への反逆者であり、徹底的に断罪されるべきだと信じている人もいるかもしれない。

しかし、重要なことがある。それは、この世には、「知的財産に厳しい人」「軽視する人」の2種類しかないわけではないということである。どういうことか。それをここでは説明する。重要なのは、知的財産の歴史上繰り返されてきた、ある「パターン」である。

トーマス・エジソン

偉大な発明王であるエジソンは、一方で多数の特許訴訟を行ったため「訴訟王」とも呼ばれる。エジソンの発明には、オリジナルなものもあるが、改良発明や倒錯疑惑まであるらしい。

エジソンは直流送電のシステムを推進していた。一方で二コラ・テスラを中心としたグループは交流送電を推進した。彼らは泥沼の戦いを見せ、最終的には交流送電が勝利した。この際エジソンがしたことは何かというと、交流に反対するプロパガンダを流布したのである。動物の殺処分や処刑用の電気椅子を交流にし、交流は危険だというイメージを植え付けようとしたのである。

エジソンの印象が変わっただろうか? しかしながら、これくらいのことは別にエジソン以外もやっているし、特に知的財産にかかわる話ならばそうである。

そして、ここからが本題だ。先人の知恵を存分に生かして発明を繰り返したエジソンは、ある時、映画を見るための装置であるキネトスコープを発明する(もちろん特許も取得している)。その後いろいろあってエジソンはモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(MPCC)というトラストを設立する。これは映画に関する特許を多数保有し、アメリカ国内の映画製作と配給を独占した。しかし、MPCCに入らなかった独立系の映画会社もあり、エジソンは特許と訴訟で彼らを追い詰める。最終的に彼らがどこに向かったかというと、西海岸である。西海岸の映画都市、つまりハリウッドである。ハリウッドの誕生には、エジソンが関わっているのである。

なおエジソンは、フランスのジョルジュ・メリエスの映画『月世界旅行』の海賊版を販売して大儲けしていることを記しておく。

ハリウッド

なぜハリウッドが映画都市になったのか? 気候や土地の安さもあるが、メキシコとの国境に近く、いざとなったらエジソンの魔の手から逃げられるというもの多分にあっただろう。つまりハリウッドの成功はエジソンの特許を「侵害」することによってなされた。

さて、もうエジソンなどという特許の鬼はいない。パラマウント、ワーナー・ブラザース、MGMといった大手映画スタジオが誕生し、「スタジオ・システム」が確立された。その結果、スタジオが制作から配給・上映までを垂直統合し、支配するようになった。これに関しては後に崩壊するのだが、さらに、後にモーション・ピクチャー・アソシエーション(MPA)となる業界団体が設立された。これは元々業界の「風紀を守る」ための活動をしていたが、スタジオシステムを強化するための信託も設立している。

時代が進むと、後のMPAは国内外で強力なロビー活動を展開し、著作権侵害への対策を各国の政府に呼びかけた。さらにインターネットプロバイダに海賊版サイトへのブロッキングを呼び掛けた。悪名高いStop Online Piracy Act(SOPA)にも賛同した。エジソンの知的財産を侵害したことで発展したハリウッドから生まれたMPAは、今や世界有数の知的財産の番人となったのである。

Google

Google検索は、世界中のウェブページをクローリングし、その情報をサーバーに保存することで成り立っている。つまり、世界中の著作物を自社のデータベースにコピーしているのだ。当初はこれは著作権侵害であるという訴訟が起きたが、フェアユースに該当するとされたため鳴りを潜めた。

そして次にGoogleは、世界中の書籍をスキャンし、データベースに保存して全文検索できるようにするためのGoogle Booksを開始した。これは全米作家協会・全米出版社協会から訴訟を受けたが、これもフェアユースとして判断された。

そして最もわかりやすいのはYouTubeだ。YouTubeは当初ユーザーが無断でアップロードしたテレビ番組やミュージックビデオで溢れかえっていた。これに関しても「あくまでユーザーがやったことなので、対策している限りは問題なし」というDMCAのルールによって生き延びてきた。

ここまで見るとGoogleは著作権を徹底的に破壊して利益を得ているようにも見える。しかし、もうお気づきの通り、Googleは巨大プラットフォームに成長し、今度は自社の知的財産を管理する側に回った。

Googleの検索アルゴリズムはトップシークレットだ。2024年に一度漏洩したのが大ニュースになったくらいだ。広告システムの技術やビジネスモデル、商標なども知的財産。先述のYouTubeでも、Content IDという仕組みによって自動的に著作権侵害を検知し、著作権者と利益を分配するようになった。このContent IDはかなりファジーな動作になっていて少し一致する程度でも検出され、たびたび問題になっている。

OpenAI

生成AIの反対者は、著作権で「保護」された作品をAIモデルの学習に使用することは「著作権の侵害」だと主張する。近年の生成AIブームの火付け役であるOpenAIは著作権に関する数々の訴訟を抱えている。少なくない人々が、OpenAIをはじめとするAI企業が史上最大規模の著作権侵害を行っていると考えている。

AI企業は著作権をうっとうしく思っており、そんなものなければいいと願っているに違いないのだろうか?

おそらくその答えはNoだ。

なぜなら、それらAI企業もまた、著作権から利益を受ける側でもあるからである。

例えばOpenAIは、自社モデルによる蒸留(モデルの知識を別のモデルに転移させること)を利用規約で禁止している。これはDeepSeekショックの時に話題になった。「さんざん他者の著作物を利用しておきながら、自分たちのモデルは使われたくないのか」という声があった。それはもっともである。しかし重要なのはこれはOpenAIに限ったことではないし、この記事で見てきた通り知的財産にかかわるほぼすべてのアクターに対して全く同じことが当てはまることである。

歴史の流れを見れば、将来的にOpenAIが「著作権の守護者」へと変貌することは全くおかしなことではないのだ。

知的財産とジャイアニズム

つまり、知的財産にかかわる人々というのは、「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」という、ジャイアニズムの体現者である。他者の知的財産を使って成長し、その後は自分の知的財産を徹底的に守る。

それはそもそも人類文化自体がそういう性質を持っているからに他ならない。すべての発明・作品は、他者のそれの上に成り立っている。何かを作り出す誰もが他人の成果を「盗んで」いる。ほとんどの人がそれを認めたがらないが。にも拘わらず知的財産はそれを「所有」しているという錯覚を与え、「保護」しなければならないという欲を抱かせる。結果として知的財産は、人間に矛盾した行動をとらせる。これは知的財産という発想自体が抱える本質的な欺瞞なのだ。

知的財産制度は、「創造を奨励し、文化を発展させる」という建前だった。だが実態は、イノベーションの促進装置などではく、ジャイアニズムを正当化する永久闘争機関だ。

今最も重要なのは生成AIだろう。生成AIが知的財産を破壊しかけているのは事実かもしれない。だがそれは創造性に対する脅威なのだろうか? むしろ欺瞞的な争いを生み出すフレームワークからの脱却を推進し、より自由な創造を促すのではないか? とはいえ、そのAIが知的財産を持つ企業の手に握られている以上、そのような楽観的な見方は難しいかもしれない。近年はローカルLLMが台頭しているが、市場独占とCUDAによる囲い込み戦略で利益を上げるNVIDIAのGPUが現状ではほぼ必須である。

所有を越えて

これら問題に対する解決策はいくつも提案されているが、普遍的に有効かつ確実であることが示されている方策は存在しない。こうすれば何とかなるという簡単な方法はないのが現実だ(もしあればとっくにそうなっている)。

結局のところ、「ひとりひとりの意識を変える」という、言い訳のような策しか方法がないのかもしれない。知的財産から利益を得られるのは、ほんの一握りの人間である。一方、不利益をこうむるのはほとんどすべての人間である。あなたはおそらく後者であり、また、前者である人もまた後者を兼ねている。あなたはこう言うかもしれない。「私は作品でお金を稼いだことはないが、著作権のおかげで無断転載から逃れている」。そうかもしれない。だが、金を稼ぎもしないのに無断転載されて本当に困るだろうか? オライリー本で有名なティム・オライリーはかつてこう言った。「作家にとっての真の脅威は海賊版ではなく、無名であることだ」と。特に大量のコンテンツがあふれる現代においては知名度を確保することが非常に困難であるし、金銭を得るならともかくただの趣味でやるなら転載された方がお得ですらあるかもしれない。

あなたは今憤慨したかもしれない。知的財産権に関する議論は感情的になりがちだ。それは近代以降最も神聖視されてきた権利である所有権を擬制しているからである。自己の所有するものを他者に使われる、奪われるのは自己そのものへの侵害であるという価値観である。しかし、知的財産権の対象である情報は「誰かが使っていても、他の人が使える」「無限に増やせる」という性質を持つので、これに所有という概念を当てはめたこと自体に無理があるのだ。しかしこの点が顧みられることはあまりない。それは所有のメタファーがあまりにも強い力を持っているからだ。所有のメタファーへの懐疑は単純な善悪に落とし込まれ、知的財産から奪われる側の人の心にすら内面化している。それを流布する大企業や団体は多分に損得で動いている面があるにも関わらず。

代わりに私は別のメタファーを提示する。それは森だ。文化とは森のようなものである。木を切れば人間は利益を得られるし、また植えれば自然も持続する。しかし、過度に伐採すれば森はたちまち滅びてしまうし、同じ樹種ばかりにしようとすれば国民の半分を花粉症にしてしまう。あるいは、文化は川でもある。長い間せき止め続ければ氾濫してしまうが、水車を回せばエネルギーを得られる。そこにあるのは「所有(ownership)」ではなく「貢献(commitment)」である。文化は本来、それにかかわるすべての人が利益を得られるし、そうなるべきなのだ。

もしこの欺瞞が問題だと思うなら、まずできることとして自らの作品をクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)で公開することである。CCライセンスは著作物が誰でも使えるようにするためのものだ。WikipediaやSCP財団はこのライセンスによって発展したともいえる。また、知的財産権の保護期間が不必要に長くなっていないかや、ある企業や団体の知的財産の運用本当に適切なのかといったことに関心を持ち、声を上げることも重要である。

知的財産の歴史は争いの歴史である。そして、それを可能にしているのが所有というメタファーである。我々は望むと望まざるにかかわらずこのメタファーに拘束されながら文化を享受している。この構造は、誰にとっても望ましいものであるとは限らない。大事なのは、この欺瞞に気づき、行動をすることである。