生産的睡眠(3時間)
S氏は30代半ばの会社勤めの男だった。もう勤めて何年にもなるのに、未だに何の役職もない平社員だった。人一倍努力しているのにもかかわらず。
もっとも彼を苦しめていたのは、昼間の強い眠気だった。特に昼飯後の会議中はほぼ必ず居眠りをしてしまう。
昨今、昼間にうとうとしているような人はそう多くない。なぜなら、睡眠の質を改善するための道具が、各社から次々と売り出されているからだ。
日本人の睡眠時間が短すぎると、各種メディアで喧伝され、いつしか日本人の眠りに対する意識は高まっていった。それがビジネスとなり、枕やら布団やら、睡眠薬やらが登場し、睡眠の質が劇的に改善された結果、「睡眠は5時間でよい」という宣言が、厚生労働省から出されたのである。睡眠時間が短いなどといった懸念は、今や過去のものになってしまった。
そんな中でもS氏は、ある日の会議でもうたた寝をしていた。すると終わり際に上司が一言。
「君、居眠りとはどういうことかね。ちょっと自己管理がなってないんじゃないか」
その目は明らかに軽蔑するような目だった。
S氏は帰りの電車に乗る。一昔前のようなお疲れのサラリーマンがだらしなく寝ているような光景は今や見なくなった。皆目がはっきりとしている。そんな中で彼は眠気に耐えた。こんなところで寝落ちすれば顰蹙を買ってしまう。
そして、彼は負けた。
彼は家で悶々とした感情を抑えられずにいた。やはり、買うしかないのか。お金がなく、寝具を買う余裕もないのに。しかし実際、それで仕事の効率が落ちて、評価されないから給料も上がらないのだ。もともとロングスリーパーの気があったし。
やはり初期投資は避けられないか。彼は衝動的に、前から気になっていた寝具を注文した。ついでにグレードの高い睡眠薬も注文した。
翌日にそれは届いた。早速使ってみる。布団に入った途端、朝になった。これは誇張ではなく、本当に一瞬で夜が明けたように感じられたのだ。5時間しか経っていないが、非常にすっきりしている。
電車で眠くなることもない。日中の仕事も冴え、もちろん会議でも。彼は本来の実力を取り戻したかのように働いた。
なんだ。こんなことならもっと早く買っていればよかった。短い睡眠で、より高いパフォーマンスが得られる。こんなに良いことはない。
なんなら、もっと減らせるのではないか。そこで、5時間から3時間に削ってみた。すると、確かに多少は変わったが、それでも何も使っていなかったときよりは遥かにマシに思えた。AIによる睡眠スコアもSからA-に下がっただけですんだ。
ところが、一カ月もしないうちにボロが出た。繁忙期、オフィスでS氏は突然糸が切れたように意識を失った。その時に頭を打って緊急搬送され、11時間も死んだように眠った。
起きた後、彼は驚くべきものを目にする。それは会社からの解雇通知だった。理由は「自己管理能力の欠如による業務停滞」。
あんなに頑張ったのに。なぜこうなった? 寝具や睡眠薬が上手く働かなかったのか?
彼は退院した後、職を探したが、あてがなかった。ついに水道も電気も止められた。安酒を飲みながら夜の町を歩いていると、奇妙な張り紙を見つける。
それは「スロー・スリープ」なる団体のチラシだった。「ただ眠って夢を見るだけのコミュニティ」らしい。そんな生産性のないコミュニティがあっていいのか。S氏は一瞬軽蔑しながらも、どこか気になるものがあった。
彼はチラシに書かれた廃工場に向かった。そこでは床に昔ながらの布団が乱雑に並べられ、十数人が雑魚寝していた。
「加入希望かい?」
そこにいたのは、パジャマ姿で今から寝ようとしている初老の男性だった。
「ええ、まあ……これ、なんなんですか?」
「見ての通り寝るだけの会だよ。変かい?」
「いや、変ですよ。寝るだけなんて……」
初老の男性は言った。
「君は、こう考えているね。睡眠は生きるのに必要だから仕方なくすることだと。しなくて済むなら、しないほうがいいのだと」
「そんなことは……いや、あるかもしれない」
「それこそが現代社会の病なのさ。生産性、効率ばかりを求めて、大事なことを忘れている。君は今日何を食べた?」
「唐突ですね……今日はコンビニの弁当を」
「その前は?」
「昨日は……ちょっと、奮発して寿司を。無職のクセに何してんだって感じですよね」
「いや、それがいい。君がご飯を食べるのは、生きるために必要だから仕方ないからか? 違うだろう? 睡眠も同じだ。ただ睡眠を楽しむのに何がいけないんだい?」
「睡眠のどこが楽しいんですか?」
「夢。夢は、己が生み出した、自分だけの最高のエンタメ。夢の話はつまらないと言うだろう。つまり夢とは、他の誰に話してもその面白さはわからない、つまり自分だけが面白いと思えることだ。ただ夢を見ることは、現代社会で、自分というものを取り戻すための一番の方法なんだよ」
「……そういうものなんですかね」
「まあ、今日の一夜くらいここで過ごしていかないか。気に入れば何日いてくれても構わない。……一昔前なら誰もがここに住んでいただろうね。今や気味悪がって、相当な物好きしか居着かないわけだが」
S氏は騙されたと思って、とりあえず今晩はそこで過ごすことにした。
今まで薬頼みだったから、そこまで劇的には寝付けなかった。しかし、日々の睡眠負債が溜まっていたのか、比較的スムーズに眠りについた。
その日S氏は、久しく見ていなかった夢を見た。どんな内容だったかは起きた途端に忘れてしまった。ただ、緩やかにいい気分のする夢だったことだけは覚えていた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
朝になり、初老の男性が話しかけてきた。
「はい、……ところで、あなたは?」
「私はね、この組織のリーダーのバクという者さ」
「そもそもこの組織は……」
「スロー・スリープ運動と言ってね。昨今の効率化だけを求める睡眠の状況に抵抗し、ただ眠るだけという新たな活動を推進する、ある種の政治運動……みたいなコンセプトでやらせてもらってるんだけどね」
あっけにとられたような顔のS氏。
「まあ、難しいことはいい。ただ寝ればいいのさ。1日を、睡眠を中心に考えるのだ。それ以外は何をしてもいい。メンバーのために食事も用意してあるぞ。多少の費用は頂くがね」
「ありがとうございます」
「それと、これ」
バクは手帳のようなものを手渡してきた。
「夢日記さ。見た夢を記録する。この記録を世に発信してこそ、初めて我々の抵抗は達成されるのだ」
「はあ……そんなものですか。しかし……今日の夢のことは覚えていないんです」
S氏がそう言うと、バクは露骨に残念そうな顔をした。
「……まあ、最初は仕方ない。やっているうちに思い出せるようになるさ」
かくして、S氏はこの廃工場での生活が始まった。昼間は日雇いのバイトをし、夕飯を食べて、夜は雑魚寝する。メンバーの中に料理好きな人が何人かいて、かなりの質の料理が格安で食べられた。メンバーと見た夢について語らい、明日もいい夢を見られるようにとお互いに願いながら眠りにつく。最初は夢を覚えられなかったが、だんだん覚えられるようになってきた。
しかしある日、一人で居酒屋で大酒を飲んで帰ってきた日。眠りが浅く、真夜中に起きてしまった。すると遠くの方から光と声が漏れている。声はバクのものだ。気になって、見てみる。
すると、バクは誰かと電話しているようだった。
電話の向こうの声が言った。
「……それで、今月のデータはどうなんだ」
「おかげさまで、また良質なのが集まってますよ。特に今月入ってきた新入りの夢がまたいいんです」
「ほう、それは期待が持てるな」
「しかし、素人の夢がこんなに高値だなんてのは、今でも信じられませんな」
「忘れないでいてもらいたいが、これは社会の役に立つ商売なのだよ。現代社会は不確実性を極限まで排除し、すべてを予測可能にした。それは大部分ですばらしい結果を生んだが、犠牲にしたものもあった。それが理屈にとらわれない柔軟な発想さ。夢というのは、その最たるものだ」
「しかし、夢の持ち主は自分の夢をただ提供しているだけで、何の見返りもないというのが少し気になるところですが……」
「なぁに、食う寝るところに住むところは与えてやっているだろう。それに、夢は誰のものでもない。それを誰がどう使ったって自由だろう」
バクは返す。「完全に、おっしゃる通りです」
S氏はそれを聞いたとき、衝動的にすべてのメンバーの夢日記をかき集めていた。そして、それらを持ったまま廃工場を出た。
彼は深夜の公園のベンチに座った。
結局のところ、手のひらのうえで転がされていたわけだ。生産性を求める社会に、逃げ道などなかったのだ。
それでも。
彼は束ねた夢日記にライターで火をつけた。そして地面に放り出し、それが燃えていくのを目の前で見た。完全に黒焦げになってから、火が消えるのをただ見ていた。
S氏は空を見上げた。空気は汚れているのか大して星も見えなかったが、そのせいかちょうどいい具合に眠くなってきた。
彼はベンチにもたれかかったまま、深い眠りについた。彼がどんな夢を見たのかは……ここに記す必要はないだろう。
