MBTIもどきの方が(ある意味)幾分マシかもしれない
特に若者の間で、MBTIは一過性のブームを越えて、定番のツールになりつつある。
一方で、批判もある。科学的根拠が薄弱だという指摘や、この結果を持って他者を短絡的に判断したり、果ては採用で参考にして落とすなど、不利益をもたらす方向に用いられているという点だ。
しかし、もっとも有名なものは、「有名な16タイプ診断は、そもそもMBTIではない」というものだろう。
そもそもMBTIはユング心理学に基づいてアメリカで60年代ごろに成立したものである。一方、現在MBTIと呼ばれて最も盛んに使われ、検索でもトップに出てくるのは、「16Personalities」という、全く異なるものである。
この指摘はたびたびされており、「日本MBTI協会」も、公式サイトで名指しこそしていないが「MBTIもどき」として、「信頼性も妥当性も検証されていない」として、批判している。にもかかわらず「16Personalities」の方が広く使われつづけるのは、無料で手軽に診断できるうえ、既に広く使われており、何より「そんな細かいことなんかどうでもいい」という考えによるものだろう。
さて、これだけ見ると、「多くの人が、信頼性も妥当性も高い『ホンモノの』MBTIを無視して、デタラメなMBTI『もどき』を使用している、嘆かわしい状況」と現状を捉えてしまうだろう。しかし果たして、これは的を射ているのだろうか?
よく考えてみると、これはおかしな話であることが分かる。
上記の表面的な批判以外に、もっと本質的な「MBTIに対する批判」として挙げられているものは以下である。
二分法に根拠がない。人間心理のデータの多くは正規分布することが知られており、最もボリュームゾーンである中間的な人の微妙な違いが無視される。
信頼性(再現性)の欠如。同じ人が時間をかけて再検査すると、違うタイプに分類される。
MBTIがベースとしている、ユング心理学そのものが経験的・個人的な理論にすぎず、科学的根拠が薄弱であるという批判。
これらの問題点から、MBTIはCorporate Astrology(企業向け占星術)と呼ばれることもある。
さて、問題は、これらはすべて「16Personalities」ではなく、れっきとした「ホンモノのMBTI」に向けられているという事実である。
こうなると、むしろ問題は、「ホンモノのMBTI」が「もどき」を批判する構図の存在によって、逆説的に「ホンモノ」が優れたものであるという印象を強化する点にあるのではないか。
そして、もう一つ重要な事実がある。それは、上記のMBTIへの批判は、「16Personalities」にはむしろあてはまらないものも存在するという点である。
「16Personalities」は、実は上記のユング心理学を意図的に放棄し、現在の心理学でもっとも有力視され、検証が重ねられているビッグファイブをベースとしている。もちろんビッグファイブとて万能ではないが、ユング心理学と比べればより科学的である。さらに「16Personalities」の末尾の-T、-A軸はビッグファイブの「神経症的傾向」に対応しているとされ、「ホンモノ」には存在していない軸である。
つまり、皮肉にも、もどきの方がより科学的検証がなされた理論を用いているということになる。もちろん、それを独自研究で二分法的に用いていることには同様の批判が可能ではあるが。
これを非常に乱暴に言えば、「由緒あるオカルト」と「カジュアルすぎる科学」の対立構造とでもいうべきかもしれない。
そしてもう一つ重視すべきなのは、「ホンモノのMBTI」は高度に商業化されたビジネスであるという側面である。
「ホンモノMBTI」は、公式のトレーニング講座を受講し、認定ユーザーと認められた者だけが実施できることになっている。その費用は30万円程度と言われる。その資料は独占的な知的財産として厳格に管理されている。
一方で「16Personalities」は、誰でも無料で診断できるフリーミアムモデルであり、「ホンモノ」と大きく異なるビジネスモデルである。また、「16Personalities」は実はMBTIという単語を使っていないのだが、これは「MBTI」という単語が商標登録されているためと考えられる。しかし、「INTJ」「ESFP」のような、性格タイプを表す文字列は自由に使用できると解釈されるようだ。「16Personalities」はこれを根拠として同じ性格タイプ名を表している。
さて、ここから何が言えるだろうか。つまり、「ホンモノ」と「もどき」の対立とは、科学的根拠や妥当性をめぐる性質のものというよりは、「ライセンスビジネス」と「フリーミアム」の対立という、ビジネス的な問題、あるいは商標争いにすぎないのではないか?
これを踏まえると、最初に挙げた「日本MBTI協会」の主張の真意がかなり違ってみえてくるのではないか。
もちろん、これをもってどっちの方が優れているとかいう話をしたいのではないし、科学的根拠がないからといって、また、商業主義にすぎるからといって、すべてが否定されるべきではない。という免責事項はさておき、ここから得られる教訓は、「公式」の権威って本当に妥当なものなの? という疑念を抱くことが常に大事ということだろう。
