永遠のゆく先へ #17「令和大噴火」
※本作品はフィクションです。実際の災害を描写したものではありません。
〈2020年4月7日、東京・上野〉
「ほら、宇宙は最初はこんな感じだったんだぞ。水素とヘリウムがくっついて、どんどん重くなって……」
「ねえ見て! ティラノサウルス」
国立科学博物館、地球館・1階。隕石たちを前に、父が娘に元素の解説をしようとしているが、小学2年生の子供にとってはいささか地味すぎたようだ。代わりに、空間の中心にある恐竜の全身骨格に注意を奪われている。
「梨花、それはアロサウルスだよ」
宇宙誕生も十分すぎるほど派手なのにな、と父はちょっと残念だったが、化石が人ごみの中で見えやすいよう、娘の手を引いて人をかき分ける。
「恐竜ってさ、なんで今はいないの?」
「絶滅したからさ」
「ぜつめつ?」
「いなくなっちゃうことだよ。地球に大きな隕石が降ってきて、それで皆死んじゃったんだ」
「逃げなかったの?」
「逃げられなかったんだ。巻き上がった土砂が空を覆って、何年も冬が続いたんだ」
「ふうん」
一瞬興味を示したようだったが、娘はもう次の場所に進もうとしている。「鳥はまだ生きてるけどね」などと教える暇もない。仕方なく追いかける父。
「ここにもあるだろ。ペルム紀末期の大量絶滅。これは恐竜絶滅よりも大変だった。9割の生き物が絶滅したんだ」
「なんで?」
「諸説あるけど、有力なのは超巨大な火山噴火によって……」
そこまで言ったところで、父は言葉に詰まった。
家は大丈夫だろうか。家を出る直前、富士山の噴火警戒レベルが3に引き上げられたという情報を見た。観測史上初だ。高齢者などは既に避難を始めているようだが、妻は今日も普通に出勤しているようだ。
「次行こうよ」
娘の言葉で、父は現実に引き戻された。そうだ。いつ噴火してもおかしくないとはいえ、それが今日なんてことは。
「この大きいのなに?」
「マッコウクジラだよ」
「絶滅したの?」
「いや、これはまだいる」
2人は系統広場へと入る。地球上のあらゆる生物が、系統樹に沿って一か所にまとまって展示されている展示だ。
「ほら、まずは真正細菌から……」
「ダチョウ!!!」
娘は生命進化の何十億年をすっ飛ばして、遠くにあるダチョウの剥製へと駆けていった。
父は大きくため息をつきながらも、後ろを歩いて行った。
その時だった。
展示室内のあらゆる場所から、けたたましい警報が鳴り響いた。各自のスマートフォンが一斉に防災速報を伝えていたのだ。父のスマホも激しく振動していた。
そして、アナウンスが流れた。
〈えー館内の皆さまに緊急でお知らせします。現在富士山が噴火したとみられる模様です。繰り返します。富士山が噴火したとみられます〉
父は耳を疑った。富士山が噴火した、と聞こえた。……一瞬、何も考えられなくなった。そして思った。あまりにも展開が速すぎる。
〈気象庁から、富士山の噴火警戒レベルが最高レベルの5に引き上げられたとの情報がありました。今後、広範囲に火山灰が降下する恐れがありますが、館内は比較的安全な造りとなっておりますので、慌てて外へ飛び出さず、係員が来るまで室内で待機してください……〉
展示室内はざわつき出す。「嘘だよね?」「でも嘘つく理由なんてないよ」などと、半信半疑の声が聞こえてくる。一部の人はそのまま展示を見続けて、別の人はきょろきょろと辺りを見回す。また一部の人は、アナウンスを無視して外へと歩いて行く。
「ねえ、富士山が噴火したって……?」
娘が父の服を引いた。それで我に返り、ようやくスマートフォンを取り出した。急いで妻にメッセージを送った。だが、電波が悪いのか送信が完了しない。
妻は大丈夫か……噴火が既に交通網は大混乱のはずで……どうやって避難するのか。いろいろな考えが聡の頭を駆け巡る。
外に出るなと言われはしたものの、電波を拾うために一度展示室を出た。かなりの人がいる。すると娘は勝手に屋外へと走り出した。
「おい、梨花!」
父の静止も聞かずに走り出し、中庭に出ていく。案の定そこにもたくさんの人がたむろしていた。
〈室内に戻ってください! 館外にも出ないでください! JR線は全線運転見合わせです! JR線は動いていません!〉
人ごみの中で目くばせをして、ようやく娘を見つけた。
「梨花、とりあえず、中に戻ろう」
そう言って父は娘の手を取る。灰が降ってくる可能性がある。偏西風に載って東京まで。すなわち避難所の中でも、気密性の高い屋内でなければ意味がない。
そんな中、娘は遠くを指さす。
「ねぇ見て、あれ」
その時初めて気づいた。人々がみな、同じ方向を見ている。一見するとそこには国立西洋美術館の壁しか見えない。だが、彼らが見ていたのはその先の、空だ。
そこには、富士山の姿こそ見えなかったが、立ち昇る不気味な黒煙がはっきりと確認できた。
その時父は初めて事の重大さを実感した。
大丈夫。富士山の近くにに住んでいる以上、こうなる日が来るかもしれないことは分かっていた。きっと妻は助かっているはずだ。溶岩流の速度は歩いて逃げられる程度。それに家も妻の職場も火砕流の到達予想範囲外だ。うまく逃げているに違いない。きっとそうだ。
日本館2階・講堂。普段は公開されていないエリアだ。聡も初めて入った。普通なら気分の上がるところだが、今日はブルーシートが張られて人々が詰め込まれている。いかにも避難所という雰囲気だった。
避難所の設営などの手伝いが一段落し、その一角に聡と梨花は座っていた。科博の外から来た人を含む沢山の人が避難してきた。この講堂だけではなく、多目的室などに分散して収容されているようだ。そんな部屋があるとは聡も知らなかった。
噴火が始まって数時間経った。電波は相変わらず不安定で、ニュースも見られない。だが妻にメッセージは送られていた。返事はまだ届いていない。不運なことにモバイルバッテリーを家に忘れてしまい、充電が4%しかない。下手に繋ごうとするより、極力温存しておいた方がいいだろう。
「ねえ、何の音?」
梨花が言うように、講堂のそこここでバラバラという乾いた音が聞こえ始めた。もしかして……。
再びアナウンスが始まった。
〈お知らせします。ただいま上野公園周辺で降灰が確認されました。これより窓や扉を完全に閉鎖し、空調を停止いたします〉
「コウハイ?」
「ついに始まったんだ。富士山の灰がここまで飛んできたんだよ」
辺りが急に暗くなった。
〈安全のため、非常灯以外の照明を落とします〉
夕方であることを考慮しても、心なしか普段より薄暗い気がする。非常口の緑色の光と、避難者のスマホの画面だけがはっきりと分かった。
そうしている間にも、少しずつ人が増えていた。まだ受け入れをしているのか? これ以上はまずいような……。想定以上に人が殺到しているのだろうか。
更に時間が経つ。辺りはほぼ完全な暗闇になった。
「暑い……」
4月上旬にも関わらず、蒸し暑さが2人を襲った。それもそうだ。あまりに人が多すぎる。1畳あたり1.5人くらいはいるかもしれない。
「上着脱いだら」
聡は梨花に指示した。自らも上着を脱ぎ、カバンに入っていたパンフレットで梨花を扇ぐ。
梨花はペットボトルの水を飲む。
「これから水は貴重になるからちょっとずつにした方がいいぞ。トイレも流れるかわからないし……」
「うん。でも、お腹空いた……」
「……ちょっと待ってなさい……」
聡はカバンを漁る。たまたまチョコバーが1本だけ入っていた。それをこっそり梨花に渡す。
「……静かに食べるんだぞ」
梨花はうなずきながらゆっくりと口を動かしてそれを食べた。聡はその間辺りを見回す。こちらを見ている人が何人かいた。
2人は、「やることがない」という新たな問題に直面した。話題もない。聡と梨花は普段からそこまで会話を交わすわけではない。梨花は家にある実験器具とかに興味を持っているようなそぶりを見せることはあるが、科学が好きというわけではなさそうだった。
あとはもう眠るしかなかった。
遠くからいびきが聞こえている。狭すぎて、体を折るしかない。聡は梨花を先に眠らせてから寝ようと思っていたが、疲れからか、すぐに意識が薄れていった。
ところが、聡は誰かに揺さぶられて目を覚ました。梨花だった。
「……ん、どうした……?」
聡は寝ぼけまなこで尋ねる。梨花はもじもじしながら言った。
「……トイレ」
カバンの奥に突っ込んだスマホで時間を見た。今は夜中の2時。どうやら、あまり寝てないらしい。
「う……寒い……」
先ほどまでの蒸し暑さも、さすがに真夜中になるとどこかに消え、時期相応の寒さが襲ってきた。おまけに不自然な体勢を強いられたからか、体のあちこちが痛い。
「トイレか……水も電気も止まってるかもしれないが、とりあえず行ってみるか」
聡はスマホのライトを点けて、寝ている人の顔を照らさないように、体を踏まないように注意しながら、梨花を連れて講堂を出た。誰かの舌打ちが聞こえたような気がした。
トイレの前には、ポリ袋と凝固剤が段ボールの中に置かれており、紙にマジックで殴り書きされた張り紙があった。
「ただいま非常用トイレに切り替え中 凝固剤とポリ袋を使用してください ・絶対に水を流さないでください ・便器にそのまま排泄しないでください」
「……わかるか? 使い方」
「多分」
梨花は女子トイレに入っていった。聡も男子トイレに入って用を済ませた。
持ち場に戻った後、遠くの方から小さな声で、こう聞こえて来たような気がした。
「……まさか……が……一瞬で……滅するとは……」
あまり眠れないまま朝の6時を迎えた。そろそろ空腹が限界に達したところで、ステージ上に大きな段ボールを抱えた職員が何人かやってきて、災害用のクラッカーや水を配布し始めた。人々はぞろぞろと向かい始める。
「すみません! 順番に……」
職員はそう叫んだが、人々は乱雑に取っていき、思った以上の勢いでなくなっていく。中には、食料を掴みかけた人の手から引き剥がすように取っている人もいた。
乗り遅れた側の2人は、段ボールがまだいくつか開いていないのを見た。
ステージまで上がった高齢の男性がそれを指さして言った。
「まだあるようだけど?」
職員が言った。「すみません、これは違うんです」
彼は不満そうに言った。「お腹が空いちゃって空いちゃって」
本来なら梨花のような子供や、高齢者に優先的に回ってくるはずだったようだ。
「ちょっと、どういうことなんですかこれは」彼はやや興奮気味に、ステージから皆に聞こえるように言った。緊張感が走る。
職員はそれを制して、残りの段ボールを開けた。そこには大量のレインコート、防塵マスク、スキーゴーグルなどが入っていた。
「まさか……」聡は嫌な予感を感じ取っていた。
職員は言った。「皆さん、申し訳ありませんが、この避難所はもう人数的に限界で、室温や二酸化炭素濃度が上昇し、体調悪化のリスクが高まっています。なので、やむを得ませんが、半分弱ほどの方に近くの避難所に移動してもらうことになります」
騒然とする。
「車が使えないので、徒歩で移動してもらいます。今は降灰は止んでいますが、地面から舞い上がった火山灰が目に入ったり、吸い込んだりすると大変危険なので、ゴーグルとマスクをしてもらうことになります。また服に付着して室内に持ち込まないように、レインコートも着てもらいます」
皆の反応は様々だった。
「だ、誰が移動するんですか」ある女性が職員に尋ねる。
「高齢者や妊婦、お子様などが中心です」
「なぜ」
「……マニュアルにそう書いて……」
「大人はどうでもいいってことですか? これ以上ここにいろなんて、そんな酷い話が……」
別の男性が言う。「いや、むしろここにいた方がいい。外は危険だ。そのマニュアルが想定してるのは地震とかじゃないのか?」
なんかかんやと揉め始めたが、職員が制止する。
「……指示に従ってください」
結局、先ほど食料をもらえなかった人を中心に移動することになった。勿論、聡と梨花もだ。
聡も防具を見につけた。防塵マスクやゴーグルはおそらく研究者用のものだろう。だが困ったことに、防具は大人用のしかなかった。梨花はぶかぶかのマスクとレインコートをして、ゴーグルは大きすぎてかなりの隙間ができている。
「まずいな……」聡は考えて、隙間に無理やりティッシュを詰めた。
「すまないが、これで我慢してくれ」
後で思い返せばもっといい方法があったような気がするが、自身の自覚以上に動揺していて、これくらいのことしかしてあげられなかった。
そして装備をした人々は科博を後にする。外に出ると、地面が砂場のようになっているのがはっきり見えた。しかしこれはすべて、ガラスでできた火山灰なのだ。
2人は前の人たちについていく。1列になって歩く。外に出て、上野公園をゆっくりと進んで行く。
「ゴホッ、ゴホ」梨花がせき込んでいる。
「大丈夫か?」
「ゴホッ、多分」
舞い上がった灰を吸い込んだのだろうか?
梨花はゴーグルの隙間から指を入れて目を擦ろうとした。慌てて彼女の腕をつかむ。
「擦ったらだめだ! 目に傷がつく」
進みがやたらに遅く、その間に灰を吸い込むかもしれないという状況は、身体的以上に精神的なダメージがあった。
ともかく一行は、東京文化会館の前に到着した。たった数百mだが、大分疲れた気がする。そこでしばらく歩みを止め、待機する。受け入れ可否などを確認しているのだろうか。無理もない。広域で停電していて、通信手段が限られているからだ。
しばらくすると前から伝言が回ってきた。「後ろに伝えてください。ここはもう一杯なので、上野駅に移動しますだそうです」
聡は大きなため息をついた。後ろに伝言した後、聡はますますせき込む梨花をかばう。
「もうすぐ着くからな」
そして同じように歩いて上野駅に到着した。だが、入口が完全に封鎖されている。
それから各所に向かってはキャパオーバーで別の場所に移動を繰り返すことになった。まずい状況になった。あまりに長い時間外にいすぎている。
聡はマスクと防塵ゴーグルの恩恵を受け、少なくとも身体上の被害はなかった。だが、梨花は違った。
ゴーグル越しでも目が真っ赤に腫れているのが見えた。前もよく見えていないようだった。絶え間なくせき込んで、顔色も悪いようだった。
「クソっ!」聡は、梨花を抱きかかえて歩き続けた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
結局、少し離れた場所にある庁舎まで歩いて来た。聡自身に問題はなかったが、梨花の目は痛々しいくらいに真っ赤だ。
「痛い……痛いよ……」
しゃがみ込んだ梨花の悲痛な叫び。聡はすぐに医療チームを呼んだ。
移動先の避難所には、報道特番を写したテレビが置かれていた。そういえばあれからニュースを見ていない。スマホの充電も完全に切れた。妻は助かったのだろうか?
〈続いて入った映像です。陸上自衛隊のドローンが捉えた御殿場市周辺の映像です……〉
次の瞬間映ったのは、あまりに恐ろしく、残酷な映像だった。ほとんど見えていないだろう梨花さえもその光景にくぎ付けになっていた。
それは、富士山の一部が崩れ落ち、その土砂が御殿場市を埋め尽くしている様子だった。もともと市街地だったとは到底思えないくらい、土砂はすべてを覆い尽くしていた。
「あー、こりゃ大変だね。可哀そうに」
ベンチに座り、乾パンを食べながら、老人は言った。
テレビの映像が、東京からのものに切り替わった。映像では、遠くの空に立ち昇る黒煙を仰ぎ見ていた。
(続く)
