ズルへのあくなき反対精神


まずはじめに断っておくと、私は世界の人間の中でも最もスポーツ、ひいては勝負事全般に関心が低い人間である自負があるため、この後に述べることが完全な見当違いである可能性もある。それを加味したうえで読んでいただきたいのだが。

スポーツにおいて、ドーピングにはさまざま批判がある。もっともまっとうに見える批判は、選手を危険にさらすというものだ。確かにドーピングは人間の「自然な」限界を超えた力を発揮させるため、その分健康への負担も大きいとされる。

では、副作用がない、あるいは容認できる場合、それでもドーピングは悪なのだろうか。

今年開催される(らしい)、エンハンスト・ゲームズは、オーストラリアの実業化が主催するスポーツイベントであり、すべてのアスリートがいかなる薬物検査も受けない、つまりドーピングをし放題のスポーツイベントである。

このような大会では、すべての選手がドーピングをする機会が与えられるため、健康の問題さえクリアすれば、公平なように感じられる。次の批判は、選手の経済的状況によって使えるドーピングが左右されるというものである。これは確かにそうである。では、その部分も完全に平等になったと仮定したら?

それでもなお、多くの人が反対するのではなかろうか。残った批判点は、トレーニングなどの努力を「省略」し、外部の力に頼り、人間の本来の能力を超えることそのものへの嫌悪である。要は「ズル」を嫌っているのである。たとえそれを誰もが安全に利用できたとしても。

人はズルを嫌う。これは人間社会が生まれた時からそうなのだろう。初期の人類は集団で生活していた。だれかがズルをすれば、集団全体の秩序や利益を害することになる。だから、ズルを嫌う人が生き残ってきたし、ズルを嫌う文化が淘汰されてきたのである。

ところが現代では、多少のズルは許され得る。この許されるとは、見逃されるという意味ではなく、社会全体の本質的な利益に、本当に影響しないという意味である。合法的な範囲内での節税は想定の範囲内であるし、他者のアイデアを真似することは、それを再発明する労力を削減できるため、むしろ全体としてはプラスになる。

ところがこれらの行為も場合によっては批判の対象になりうる。それは、人が実際の損害よりも「ズルらしきもの」に対する嫌悪感を本能的に持つからである。いわばズルへのあくなき反対精神が、人類の利益を不合理に貶めていると考えることもできる。

これはAIとも関連する話だ。AIはものごとを効率化し、人の創造性を高めてくれるが、「違法に取得されたデータで学習されている」「人間の仕事を奪う」などと批判されることも多い。

では、(実際には不可能であろうが)一切の学習なしに機能するAIが発明され、かつベーシックインカムなどによりすべての人間への無条件の収入が保証された社会が突入したとしよう。その世界で何らかの作品を発表したとして、後でその作品を「すべてAIに作らせた」と表明することは、その価値をいくらかでも毀損させるだろうか?

いくらAIが好きな人でも、「何一つ毀損されない」と自信を持って言い切れる人は少ないのではないか。ここに人間のズルを嫌う心があるのだ。人は、低い労力で高い効果を得られることを嫌う。それが自分ならばいくらかマシになるが、他人がそうすることは許せない生き物なのだ。

ズルを嫌うというのは、確かにメリットもある。ズルの多くは社会にとって本質的な害をなすものだからだ。しかし、そうでないズルもまた、無視できないほど多く存在する。ドーピングやAIがそれだと断定するわけではないが、もしそうであるならば、その心の働きは不合理で、ナイーブで、間違っているということになる。そのような心理を否定するわけではないが、私は、個人的には、「社会全体の利益として、本質的にはどうなのか?」という視点を持つことが重要なのではないかと思う。

それはズルを嫌う心がヒューリスティクスにすぎないからである。ヒューリスティクスは多くの場合有用な解を提供するが、必ずしも最適解をもたらすとは限らない。それをいろいろなものに適用して回るのもいいが、そのヒューリスティクスから零れ落ちたものを拾う精神もまた捨ててはならないのではないかと思う。