音楽というものは作り手と作品が受け手の中で非常に強く接続される。曲を聴きながら、この曲はどのような経緯で作られてどのような気持ちが込められているのか、などを思索しながら聴く。それのみならず、そもそもアーティスト・作曲家のセンスのようなものを信頼して、それを「委ねて」いいのかどうかの判断が、理屈を超えたレベルで脳内で行われる。
ところが、このような聴き方はすでに古いものとなりつつある。サブスクの登場によるものだ。サブスク時代では、アルバム・アーティストの垣根を越え、自らの好みにあった作品がアルゴリズムによって自動でレコメンドされる。そのような時代に音楽に目覚めた人(実を言うと自分も世代的にはそうなのだが)は、誰が作ったかなどもはや気にしていない人が多いのかもしれない。
しかし、若者文化といわれる推し活の一環で音楽を聞いている人は、この傾向に当てはまらない気もする。しかし、そのような聴き方をしている人はそもそも他のアーティストに興味を持たないので、「音楽好き」というクラスタからは少し外れるというだけの話だろう。強いていえば推しと人間的に関係の深いアーティストは聴くかもしれないが、それは「人」としてのつながりであり、音楽文化としてのつながりではない。
このように、「作り手」と「文化」の分離が、近年において顕著になりつつあるのだ。これは何も音楽に限った話ではない。例えばYouTubeで再生されるには、登録者の増加よりもおすすめに載るかどうかが重要になってきている。Tiktokはもっと顕著で、おすすめにフォローがほとんど反映されないらしい。SNSでは、Xもメインのタイムラインとして、フォロー中よりもおすすめの方を推し進めており、そこではフォロー中の人のポストはあまり表示されない。つまり、先述の音楽サブスクも含めて、レコメンドアルゴリズムの世界では、誰が作ったかよりもどんな作品かのほうが重要なのである。
これにより起こる変化はいろいろありそうだが、私が注目しているのは、AIが作った作品の受容である。ここではAI製という言葉は、人間の関与がほとんどなくほぼすべてをAIで生成したもののことを指すとする。
例として音楽で考えてみる。近年では作曲AIもかなり進化してきた。しかし今のところ完全なAI製の音楽が、「AIが作った」という情報による付加価値無しに、それ自体で大ヒットを飛ばした、あるいはバズったという例は聞かない。それはおそらく作り手との脳内インタラクションが不可能だからである。
旧式の音楽への向き合い方、つまり作者との繋がりを重視する方法では、作曲者が「不在」であるAIの音楽は価値を大きく失う。しかし新たな向き合い方、つまり作品のみで評価する方法ではどうか。AIの音楽にも、内容次第では価値が生まれうるのではないか。
今の10代、もしくはそれより若いくらいの人たちは、コンテンツと向き合ううえでレコメンドアルゴリズムが存在し、作者を気にする機会が少ないことが前提となっている。そのような環境で育ったならば、クオリティの高いAI製の作品がフィードにずらりと並ぶことに抵抗がないかもしれないのだ。さらに進めば、その時の気分に応じてその場で生成して楽しむ、ということが始まるかもしれない。
これについてどう思うだろうか? もっと作者と対話すべきであると怒るか? あるいは悲観して文化の衰退を嘆くか? 主体性の喪失、資本主義の跋扈として問題視するか?
しかし私は全く別の考えを持っている。それは、「これが本来の文化のあるべき姿である」というものである。
つまり、文化とは本来人間とは無関係に存在し、複製、拡散、変異しうるものだったのだ。今までその主な担い手が人間だけだったので気づかなかったが、実は文化は人間に縛られるべきものではなかったのかもしれない。
実際、ウグイスやシジュウカラなど鳥の鳴き声には地域差があり、これは周囲の鳥の鳴き声を学習するからと言われ、これも文化の一つと言える。
人間の文化だってそうである。石器を発明したのは誰か? 最初に火を起こしたのは誰か? 最初に踊ったのは誰か? 最初に言葉を話したのは誰か?
誰も知らない。そして、誰も気にしなかっただろう。その頃は、文化が特定の人間に紐付けられることはなかった。それが始まったのは、農業が始まり、何かしらの権威が生まれてからだろう。そして現代ではそれが知的財産として制度化され、あたかも当然のことであるかのように認識されるに至った。
文化は自然のようなもので、コントロールしようとすると滅びるか、逆に返り討ちに遭うことも多い。文化は人間のものであると信じコントロールしようとすることは、森林を切り開き、海を汚し、野生生物の生息環境を減らすことと類似性があるように思えて仕方がない。
作品を作者に強く紐付けて売り出すという姿勢自体が、文化をコントロールして利益を得ようとする資本主義的な発想なのだ。そこに、奇しくも資本主義の究極の成果であるAIによるレコメンドシステムがメスを入れようとしている。もちろんSNSのレコメンドが偏っている、企業の利益を最大化しようとしている点は懸念すべきだが、作者横断的なレコメンドという発想そのものは文化にとって正しいことなのかもしれない。
ここまで文化と人間の分離をポジティブに語ってきたが、もちろん、一作り手としてはそれが悲しいものであることは否定できない。文化が人間の生活を豊かにし、時には命をも救うのは間違いない。しかしそれは、森林が私たちを豊かにし、河川の水が私たちを生きながらせていることと同じである。つまり、それらは時折牙を剥くし、私たちがその欲望によって傷つけることもある。私たちは、特に作り手は、自然への畏怖と全く同じレベルで、文化への畏怖も持つべきである。その意味では作り手という言葉ではなく、共生者、などと言ったほうがいいかもしれない。私たちは共生者として、飲み込まれるでもコントロールするでもなく、うまく利用して、うまくケアして、いい関係を築いていきたいものである。