最近「思想が強い」という言葉がよくつかわれるが、これはその強さの個別性を無視した、思想の弱い側から見た時の表現である。実際にはリベラリズム、リバタリアニズム、コミュニズム、アナーキズムといった沢山のイデオロギーが存在するが、「思想が強い」という言葉は、単に主張の強さという尺度でしか物事を説明していない。そのような表現は、「思想が強」くない人しか使いたがらない。
「頭がいい」という表現もそれに通ずるものがある。頭の良さにはいろいろな種類があって、発想力がある、応用力がある、あるいは単に知識がある(その知識の内容によってもさらに細かく分けれられる)ということを一緒くたにしてしまう。おそらく「頭がいい」という言葉を使う人はそれらのどの能力もない(ことを自認している)人だけだろう。
より具体的に「パソコンが得意」という表現にも似たようなものがある。単にパソコンの機能を使いこなせる人から、プログラミングができる人、セキュリティに詳しい人、CGに詳しい人など、いろいろな「パソコンの得意さ」を全部雑にまとめてしまった言葉で、やはり「パソコンが得意」ではない人しか、そのような表現を使わない。
これらに共通することをまとめるとしたら、人の性質を語るのに、極座標の動径座標rの方しか考慮していない尺度である、ということになる。極座標系では、一定の範囲のrに該当する部分の面積は、その範囲が中心から離れるほど広くなる。つまり、例えば思想だったら強くなればなるほど多様になるということ。
このことを理解しているかどうかで、世界の見え方がかなり変わると思う。