ナショナリズムは、国家を戦争に向かわせ、弱者を迫害し、国際協力が必要な問題の解決を先送りにするなど、弊害が非常に大きいことは、何千年もの歴史の中で既に示されたとおりだ。
ところが、もっと小さな連帯、つまり「○○のファン」や「○○県民」という意識が問題視されることは、比較的少ない。最もプリミティブな連帯と言える「家族」についても、SNS等における家族主義的な価値観への反発は存在するものの、ナショナリズムほどは問題とされないのが普通だ。
逆にもっと大きな連帯、つまり「人類愛」「地球市民」と言ったものについてはなおさらである。むしろ、しばしば先述のようなナショナリズムを嫌う層によって、「愛国」といった概念へのカウンターとして語られる。
ところが私は、これらにも問題をはらんでいるのではないかと指摘したい。つまり問題なのは「連帯のスケール」ではなく、「連帯そのもの」であると。
連帯がかかえる問題は何か? それは「内に閉じている」ことである。「愛国」なら国の中に、「家族愛」なら家族の中に、ファンならファンコミュニティの中に。そのような閉じた環境の中で、外部の声は最低でも軽視され、しばしば無視されたり、非難されたりする。そうした連帯の中で苦しむ人は声を上げられなくなり、また連帯の外を苦しめている現状に異議を唱える者もまた押し殺される。
じゃあ人類愛はどうなんだ、というかもしれない。それだって、人類の中に閉じているではないか。他の生き物は取り残すのか? 地球市民に関してもどうか? いや、宇宙人が除外されている。
屁理屈のように聞こえるかもしれない。しかし、連帯というものの本質が「有限のものを囲って内でまとまる」ことである以上、そのような懸念は絶対に避けられないのである。
この視点からすれば、あらゆる連帯を拒絶することこそが、倫理的に正しいと認められる唯一の態度なのである。このように、「連帯」そのものを諸悪の根源と考え、あらゆる種類の連帯を人生からも社会からも徹底的に廃絶する思想を、私は 「ボッチイズム」 1と名付けることにする。
ボッチイズムを実践するボッチイストたちがとるべき態度はこうだ。
- あらゆる属性を拒否する。属性を持つこと自体は、それが客観的ラベルである以上不可避であるが、そのアイデンティティを内面化することはしない。
- 何かを好きになることはあっても、その好きを共有しようとしない。もちろん同好の者で集うようなことはせず、ただ一人で対象とじっくり向き合う。
- 社会を避ける。社会は連帯を前提としたシステムであり、取り込まれると連帯を拒否することが難しくなるからだ。
- 唯一許されるのは一対一(ピアツーピア)の対等な関係である。2人だけならば共通点が無数にあり、特定の属性での連帯は成立しない。2点だけでは平面が定義できないようなものだ。3人以上集まると、そこに連帯が生まれるのである。2
- 万物を愛する。ここまでで、ボッチイストは非常に孤独かつ冷酷な人であるという印象を受ける。実際は、真逆なのだ。万物に対する深い愛を持っているからこそ、特定の属性に肩入れすることはしない。もちろん、盲目的にすべてを許すというわけではない。良くないことが起きたらそれを認めて、解決のための努力をすべきである。
ボッチイズムは反社会的、というよりは「非」社会的であるかもしれない。さらに、そもそもそのような生き方は不可能であるのかもしれない。しかし、DTMの普及で音楽を一人で作れるようになったように、技術の進歩は人を孤独でもいいような方向に向かわせている。アリストテレスは人間を「ポリス的動物」としたが、それは歴史の中の一時的で特殊な状況にすぎなかったのだ。私は、そう確信している。
万物よ、孤立せよ!