ミリしら推し論。
便宜上VTuberを名乗っているけれど、「推し」の概念が一向にわからぬ。
理論的には、なんとなく理解しているつもりだ。「推し」という現象を説明する理論の候補は、自分の中にいくつか持っている。
1つ目は、語義通り、推しとは他人に物事を広めたいという欲求のことを指すというものだ。この定義でいくと、宗教活動のようなものも推し活に含まれることになる。
2つ目は、推しとは恋愛のスーパーセットであるというものだ。つまり、推しは必ずしも恋愛ではないが、すべての恋愛は推しであるという関係性である。具体的には、推し感情に「自分のものにしたい」という感情を付加したものが恋愛であり、逆に言えば、推し感情とは(恋愛)+(恋愛から独占欲を除いたもの)であるという考えだ。

独占欲まで行かなくても、「個人としての自分との相互作用によって相手方に何かしらの変化を与えたい」という気持ちが、恋愛にあって、推しにない(あるとは限らない)ものなのかもしれない。
ただ、推しに「認知」されたい人も、されたくない人も、両方少なくない。この定義では推しに認知されたい人は全員推しに恋愛感情を抱いているということになる。それは少々乱暴なような気がする。
3つ目はこうだ。人生の目標は幸福の最大化である。しかし、自分が幸せになるのは困難なので、代わりに推しに投資をし、幸せになってもらい、それに共感(消費)することで喜びを得ようとする。これが推しである、という理論だ。幸福のアウトソーシングともいえる。
韓国のスラングに「代理満足」というものがあるらしく、まさに同じような意味で使われているらしい。
この行動は、自分が幸せになれる可能性が低いときにより合理的である。したがって、この「推し」行動の普及は、幸福を得づらい社会になったこと示唆しているのではないか、という邪推までできる。
以上のようなことをちょっと前に考えたことがある。ここで疑問なのは、自分の実感として「私は今、〇〇を推している」という感覚を抱いたことがないのだ。
憧れの人がいなかったわけではないし、ハマった人がいなかったわけでもない。にも関わらず、「これが推しだ」という感覚に出会ったことは一度もない。なぜ推しという感情に出会ったことがないのかを、上の理論に照らし合わせて考えてみる。
1つ目の「布教」理論ではどうか。私は趣味は個人的なものであると考えており、あまり他人と共有しない。絶対に共有したくないわけではなく、少しは語り合いたいと思うこともあるが、「そんなのが好きなんだ」と思われたら嫌だし、同好の者だったとしても見解の違いが浮き彫りになったら嫌だし、モグリだと言われたら嫌だし……いろいろ考えてしまう。ともかくそれで他人に好きなものを共有したがらないので、いくら好きでも「推し」とはならないのかもしれない。
2つ目の「超恋愛」理論。私の人生で人を好きになったことは何度かあるが、いずれも最終的には「相手にとっての特別な存在になりたい」という考えに至っており、その点で推しとは違うのかもしれない。一方、明確に好きになった人以外でハマった人などはいるが、そういう特別な存在になりたいと思ったことはない。そういう人は自分にとっての「推し」に最も肉薄した存在だったのかもしれない。しかし、そもそもそこまで感情が強くなかっただけかもしれない。
3つ目の「代理幸福」理論。確かに私は貧乏で、YouTubeで食事シーンを見たり、家を買った人を見たりして満足しているところはある。だがそれはそのシーンを消費しているだけであって、「その人の幸せ」を消費しているわけではない。つまり幸福をその人に預けているわけではない。
3つの視点で自分に推しがいない理由を明らかにした。いろいろと理屈をこねたが、要は受動的なのである。推しをWikipediaで調べると、推しの特徴は「大人世代」の消費よりも能動的であることというふうに書いてある。つまり受動的である時点で推しではないのである。コンテンツのフォアグラなのである。
私はVTuberとして、推される存在になる必要があるのだろうか。自分自身が誰かを推したりしないがゆえに、推されなくてもいいと考えてしまう。だが、推しとは能動的に「好き」を行動に移すこと全てであるのかもしれないとすると、それをされない存在というのは、あまり面白い存在ではないということなのだろう。そう考えると、結局は目指すべきところは推される存在になることなのかもしれない。