夏の記憶

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千本槍みなも@ナタクラゲ

これは、この日だけの思い出になるはずだった話。

夏祭りの季節になっていた。うちの地域では8月になると、毎週のように花火大会が行われ、ついでに当時の家からそう遠くない場所にある神社で夏祭りが行われる。あの頃は、それがとにかく煩くて仕方なかった。雷かと思ってパソコンを消したら花火だったなんてことはよくあったし、花火と同時に発砲事件があったら誰が気づくのか、などと考えていた。夏祭りに関しても、ぼったくり屋台にインチキ射的で、雰囲気を考慮してもとても金を出す気にはなれなった。すくわれた金魚の運命だって決して晴れやかなものではないと後ろ暗いことを考えたものだった。

そんなこんなで神社には近づきたくなかったのだが、その日は塾があったのでどうしても近くを通らなくてはならなかった。だからさっさと早歩きで帰ってしまおうと思っていた。だが、そこらじゅうでぼんやりと光るオレンジ色の灯りと、煙に乗って漂ってくるソースの匂いに、僕はなぜか惹きつけられてしまったのだ。

気が付いたら、僕は神社の中にいた。ふと我に返ると、周りには親子連れではしゃいでいる子供たち、酔っぱらって声が大きいおじさん、不良みたいな集団。そんな中で一人、非常に場違い感を感じた。特に今日付き合ったのかと言わんばかりの中学生カップルには、同年代ということもあってか、かなりのいら立ちを感じた。

入ってきたことを後悔して、そそくさと帰ろうとした。

すると、声が聞こえた。

「どこ行くの?」

声は後ろからだった。耳をくすぐるような、高いながらも優しい声。

振り返ると、同年代くらいだろうか、白いワンピース姿の女の子が立っていた。顔は暗くて良く見えなかったが、今までに見たどんな顔よりも美しく可愛らしく感じられた。

僕は答えた。

「どこって、帰るんです」

「まだ来たばっかなのに?」

なぜそれを知っているのか? 不思議に思った。

「見てたんですか?」

「私にはわかるの」

「気味が悪いなあ」

だが、不思議と悪い気はしなかった。そして、彼女の言うように、まだ来たばかりなのにすぐ帰ると言うのももったいない気がしていた。

「ねえ」

彼女は身を傾けて話しかけてくる。

「一緒に回らない?」

「えっ」

僕はドキリとした。それじゃあまるで……カップルみたいじゃないかと、そう思った。ただ、その日はたまたま両親が夜まで家にいなかったため、実際遊んでいく時間はあった。

「絶対楽しいよ」

「……うん」

いつの間にか、僕は首を縦に振っていた。こうして、予期もしていなかった僕の夏祭りが始まった。

僕たちは二人で、ずらりと並ぶ屋台たちの前を歩いた。彼女はその中の一つを指さして言った。

「ほら見て、たこ焼きだよ」

「たこ焼き……大体、こういうのってぼったくりでしょう。ショッピングモールのフードコートとかの方が安いはず」

「あのね」

彼女は僕の目を見て言った。とっさに少し目を逸らす。

「楽しいからいいんだよ」

「楽しいから?」

「そそ。人生は楽しまなくちゃだめなんだよ」

「そうかなあ」

僕はいまいち納得できなかったが、ちょうどお腹も空いていたし、仕方なく買うことにした。

「じゃあ、たこ焼き二個で」

「あ、一個でいいよ」

「え?」

半分こにするとでも言うのだろうか。

「たこ焼き1つお願いします」

「あいよ」

小銭数枚を渡すと、屋台のおじさんは威勢のいい声と共に、作り置きされたたこ焼きを渡してきた。この量とクオリティでこの値段は、やっぱりどうしても高い気がしてならなかった。

僕はそれを一つ、爪楊枝で刺して食べる。思えばたこ焼きなんて久しく食べていなかった。味はそこまで悪くなかった。というか、おいしかった。

僕は彼女にたこ焼きを渡そうとした。

「……ほら」

しかし、彼女の答えは意外なものだった。

「あ、私はいいよ」

「え?」

「別にお腹空いてないし……というか、食べなくても大丈夫っていうか」

よくわからなかったが、とにかく全部自分で食べた。

「見て見て! 射的だって」

また彼女が指さしたのは、たくさんの景品が並べられている射的の屋台。中には最新のゲーム機など、とても豪華なものもあった。

「でも、こういうのって大体イカサマなんだ。ゲーム機だって本当に入ってるかわからないよ。砂が詰まってるかもしれない」

すると、彼女は言った。

「……でも、君が撃ってるとこ、見たいな」

彼女にそう言われると、なぜだかやる気になってしまう。

「仕方ないか。どうせ遊びだもんな」

僕は屋台のおじさんに金を渡し、三発の弾を受け取る。

「頑張って!」

彼女の応援が聞こえてくる。僕はとりあえず堅実に、小さなお菓子の箱を狙おうとした。すると、彼女は「もっといいやつ!」と言ってきた。仕方ないのでゲーム機の名前が書かれた箱を狙うことにした。弾を打った。全く見当違いの方向に飛んで行った。二発目。今度は別の的に当たるも、落ちはしなかった。三発目。また明後日の方向に飛んで行った。

「残念だったね、僕」

おじさんの煽りもあって、僕は無性に悔しくなる。

「もう一回お願いします」

「おお、いいねぇ。でももう一回並んでくれよ」

僕はそれに従って再び後ろに並んだ。

「意外と乗り気だね」

彼女は笑ってこちらを見てくる。

「……うるさいなぁ」

結局3回くらい並んだが、大したものは取れなかった。小さいラムネのお菓子が1つ取れたに過ぎなかった。

「結局無駄だったな」

「無駄じゃないよ。楽しかったでしょ?」

「……」

そういえば、彼女はやらないのだろうか? そんな疑問もよそに、彼女が再び歩き始めたので、僕もついていく。

大きなドンという音が鳴り響いた。銃声かと思って一瞬背筋が凍ったが、すぐに上空でカラフルな光が花開いた。花火だ。

「きれいだね」

こんなに近くで花火を見たのは久々だ。しかも家族以外の誰かと見るなんて、もしや初めてじゃないか。にこりと笑うその顔は、花火に照らされて、やけに輝いて見えた。

「……ね、楽しかったでしょ?」

流石にいいえとは言えなかった。というか、言うつもりもなかった。だって本当に楽しかったんだから。

「楽しかったよ」

僕がそう答えると、彼女は何も言わずにまた笑った。無限の時間が流れているような気もしたし、一瞬で過ぎ去っているような気もした。いつの間にか花火は終わり、夏祭りも終わるころだった。

「ねえ」

「明日も来ない?」

僕は首を縦に振った。

「よかった! じゃ、またね」

彼女は手元で小さく手を振った。僕も振り返した。手に持ったリンゴ飴を一口舐め、再び同じほうを見ると、もう彼女はいなかった。

夏祭り3日間のうち、1日目のことだった。

あの日は眠れなかった。屋台のこと、花火のこと、そして、彼女のこと。すべてが鮮烈で脳裏に焼き付いていた。おかげで長めの昼寝を取ることになった。そうしたらもう夕方になっていた。夏祭り2日目が始まろうとしていた。その日は母親が帰ってきていたが、友達と夏祭りに行くと伝えた。珍しがってはいたが、当然反対もされなかった。

神社に入ると、彼女はどこからともなく現れた。

「よっ」

彼女は手を上げて挨拶してくれた。こちらも返す。

「先に来てたんだね」

「先に来てたというか……まあ、そんな感じだよ」

相変わらず彼女の言動はよくわからなかった。

「今日は結構お金持ってきちゃったよ」

僕はそういって、彼女にこっそり財布の中身を見せる。

「すごい小銭の量! たこ焼きが20パックは買えちゃうんじゃない?」

彼女は大声を出して驚いた。

「まあ、普段あんまり使わないからね……」

これだってお年玉を取っておいただけの話だ。この金で、僕たちは屋台を回ることにした。だがこれが良くなかった。

僕たちは金魚すくいの屋台の前にいた。

「これやらない?」

彼女はそう言ったが、僕は微妙だった。

「せっかくすくえても飼えるかどうかわからないからな……仮に飼えてもすぐ死んだらかわいそうだ」

しかし彼女は自信たっぷりに言う。

「大丈夫だよ!」

「なんで?」

「どうせすくえないから!」

彼女は満面の笑みで言う。

「あのさぁ……」

ついにこんな冗談まで言ってくるようになった。まあ、昨日の射的で僕がどれだけ不器用か知ってるからだろう。

「1回だけだからな?」

「やったー」

そんな会話をしていると、周りの人達がしきりに僕の方を見てきた。カップルだと思われたか。急に恥ずかしくなった。

僕は数枚の小銭と引き換えにポイを1つ受け取り、大量の金魚が泳ぐプールに沈めた。彼女は例によって隣で見ているだけだった。金魚の下にポイを持っていき、上に引き上げる……と同時にポイが破けた。

「残念、もう終わりにする?」

彼女はそう僕に尋ねた。

「うーん……もう一回やろう」

結局一匹もすくえなかったが、参加賞として小さな金魚のおもちゃをもらった。

このあたりでお腹が空いてきたので、とりあえず腹ごしらえをと思ったが、大変なことに気づいた。

財布がなかったのだ。

「どうしたの?」

様子がおかしい僕に気づいた彼女。

「大変だ、財布がない」

「え、それは大変」

「スられたかも」

「その辺に落としてきただけかもよ?」

「いや、これはスられたんだ。ああ、大声で金の話なんてするから」

僕はその時ちょっとだけ彼女を恨んだ。でも彼女はピンと来ていないようだった。

「とりあえず、警備員っぽい人を探して相談するしかないな」

僕はそれっぽい人を走って探しまわり、見つけた。

「あの、財布を無くしてしまったんですけど」

「財布か……中はお金だけか? 他に何が入っていたか?」

「小銭がいっぱい入っていました」

警備員は優しく、だがどこか冷たく答えた。

「それだけか。うーん、とりあえず、警察に届け出て、連絡があるのを待つしかないね……でも、本当に戻ってくるかは別の話だね」

「そんな……」

中学生の落とし物など大した金額じゃないというのだろう。でも、僕にとってはまあまあの大金だ。あまりお金を使わないとはいえ。

大人は頼りにならない。自分で探さないと。

「とりあえず、歩いてきたところをもう一回たどってみよう」

どうしよう。やっぱり夏祭りなんて来るべきじゃなかったのかな。不安が先行し、息が上がる。

すると、彼女が僕の腕をつかんできた。今までとは別種の緊張が走った。

「落ち着いて。せっかく楽しいんだから、楽しみながら乗り越えようよ」

僕はどぎまぎしながら答えた。

「お、落ち着いてられないよ。お金のことなんだ」

彼女は腕を離し、言った。

「……とりあえず、お願いしたら?」

「お願い?」

「そそ。せっかく神社なんだし、神頼みーなんて」

僕は呆れた。

「……お賽銭のための小銭がないじゃないか」

「近くに行くだけでも、何か効果があるんじゃない?」

「そんな都合のいいことが」

だが不思議なことに、彼女に触れ、彼女と会話しているときは、心が落ち着く気がした。僕は彼女の言われるがままに、拝殿の方へと向かった。

そこにも結構な人が集まっていた。他の場所とは違い、神々しい厳かな雰囲気が漂っていた。

その人ごみを眺めていると、今度は彼女がいなくなっていることに気づいた。

「あれ?」

僕は急に不安になって、人込みをかきわけながら彼女を探した。彼女に似た面影はいくつもあったが、違うことに気づいて落胆するのを繰り返した。

結構な時間が経った後だった。拝殿から少し離れた森の入り口に彼女は立っていた。

「あ」

「どこ行ってたんだ、なくすのは財布だけでいい」

彼女はにっこり笑って言った。

「その財布だけど、見つかったよ」

「え?」

「金魚すくいの屋の裏側にあったんだよ。やっぱり落としてただけみたい」

そう言って彼女は僕の財布を渡してきた。間違いなく僕の財布だ。だが、安心より、不思議が勝った。

「……なんでわかったんだよ」

彼女はそれを無視するかのようにしばらく黙って、やがて答えた。

「……なんでだと思う?」

彼女は身を傾けて笑顔を見せてくる。気が付くと、空には花火が舞い上がっていた。僕は何も言えなかった。

「……もう今日の祭りが終わるね」

僕は何か話さなきゃという気分になった。

「楽しかったよ」

そう告げる彼女に僕は居ても立っても居られなくなって、言った。

「……明日、祭り最後の日だけど、来るよね?」

彼女は例によってしばらく黙ってから答えた。

「……たぶんね」

でも、なんとなく、彼女とはもう二度と会えないような気がした。

「ほら、最後の花火が上がるよ」

彼女の指さす空を見上げると、そこには赤に黄色に緑、いろとりどりの花畑が広がり、辺りは一瞬、昼間のような明るさになった。

その光が消えたとき、彼女はもうそこにはいなかった。

気が気ではなかった。次の日、僕は悶々とした時を過ごし、やがて夜になった。期待と不安が入り混じったまま、3日目の夏祭りが開催されていた神社に向かった。

だが、いくら待っても彼女は現れなかった。

親に夏祭りに行くと言った手前、すぐ帰るわけにもいかなかった。はじめは昨日まで行けなかった屋台、特に食べ物系の屋台を回った。お好み焼き、イカ焼き、綿菓子、チョコバナナ。もちろん財布を落とさないように気を付けて。だがお腹は満たされても、心は満たされなかった。何かぽっかりと穴が開いたような、そんな感じがした。やがて僕は彼女との記憶をたどるように、たこ焼き、射的、金魚すくいと回っていった。だが、それは喪失感を上塗りするだけだった。

それでもいつか彼女が現れるんじゃないかと思って、心のどこかで期待をし続けていた。だが結局彼女は現れないまま、夏祭りは終わりを告げた。花火の消えるパラパラという音とともに、僕の中でも何かが消え去ってしまった。

あれ以来、僕は彼女の幻影を振り払おうとした。だがそれはできなかった。夢にまで出てくるようになった。彼女にまた会いたいという願望は日増しに強くなるだけだった。

気づけばあの神社をもう一度訪れていた。あの子が言ったように、神頼みをするために。

お百度参り。同じ神社に百回お参りすれば願いが叶うというものだ。1日で百回することが多いらしいが、より伝統的な、百日かけるものの方がよいだろうと考えた。次の夏祭りの日から逆算して百日前から始めることにした。

それからは帰りが遅くなった日も、雨の日も、風邪をひいても、毎日神社で彼女に会えるよう願った。前の自分ならこんなことバカみたいと一笑に付していたに違いない。だが今回は本気だった。

時が立つのは早く、もう次の夏祭りの時期になっていた。高校受験の勉強を半ばサボるような形で、夏祭り初日、つまり参拝百日目がやってきた。

いつもと雰囲気は違い、オレンジの光とソースの匂いが漂っていたが、やることは同じだった。入口から参道を通り、手水舎で手と口を清めてから、拝殿に向かう。二礼二拍手一礼。慣れたものだ。彼女に会えますようにと、ただそれだけを願う。

参拝の流れとして、一度入口まで戻った。これでお百度参りが完了だ。もし願いが叶っていれば、きっと彼女は現れるはずだ。

僕は再び神社に入り、しばらくその場で待った。

結論から言えば、彼女は現れなかった。

百日を無駄に過ごした。そういう気分が僕の目の前を覆いつくしていた。かつてない虚無感に襲われ、もうだめなのだと思った。楽しそうに歩いている友達連れやカップルたちが去年よりも増して恨めしく感じられた。

そんな雰囲気から逃れたかったのだろうか、僕は再び拝殿の方に向かっていた。すると、去年、最後に彼女に会ったあの森を思い出した。彼女はそこで何をしていたのだろうか。僕はほとんど衝動的に森の中に入っていった。

そこまで奥へと行かないうちに、見たこともないものがそこにはあった。

それはほこらのようなものだった。その前には写真があって、その写真には見覚えのある顔が映っていた。

それは他でもない、僕が百日間、いや一年間会いたいと望み続けたあの子の顔だった。

僕は混乱した。なぜこんなところにあの子の写真が? すると、そばを神主さんと思われる人が通りがかった。

「すみません」

「なんでしょう?」

「この子は……」

すると、神主さんは難しい顔をして言った。

「ああ、その子は、この神社に住んでいた子ですよ」

「この神社に?」

たしかに、彼女がどこか神社の外に帰るのを見たことはなかったが……。

神主さんは僕に訊ねた。

「もしかして、彼女を見たのですか?」

「見た……って、どういうことですか?」

「彼女はね、捨て子だったんですよ。それを私がたまたま見つけたもので、紆余曲折あって私が引き取ることになったんです。私は神社に、正確にはすぐそばの家ですが、そこに住んでいるもので、彼女をそこで育てることにしたのですよ」

「それは……」

「もと捨て子だったのもあってか、体が弱くて、しょっちゅう病気になっていました。学校にもほとんど行けなくて、友達もあまりいなかったのです。そして、14歳くらいのころだったか、……」

その先は聞きたくなかった。

「……病気で亡くなってしまったんです」

やっぱりか、と、大体わかってはいたが、はっきりしてしまうと精神的につらかった。彼女は幽霊だったのだ。急に現れて急にいなくなるのも、何も食べないし自分では射的や金魚すくいをしないのも、そのせいだったのだ。

「あの……僕は、夏祭りで彼女と一緒に回ったんです。あの時の彼女はまるで、つまらない人間だった僕に夏祭りの楽しさを教えてくれるようでした。それが、幽霊だったなんて……」

黙り込んでしまった僕に、神主さんは言った。

「彼女は神様になったのです」

神様? と僕は心の中で思った。

「彼女は、人生を楽しめないまま亡くなってしまいました。だからきっと彼女は、あなたに楽しんでほしかったのでしょう。あの子は生前、夏祭りが唯一の楽しみでした。その楽しみを、あなたにも知ってほしかったのかもしれません」

もしかしたら、あの子は、僕が十分に楽しんだから、もう一緒にいる必要がないと思って消えてしまったのかもしれない。

しゃがみこんで落ち込む僕に、神主さんは耳元で言った。

「きっと彼女は、君のそんなところは見たくないはずですよ。君が人生を楽しむこと、それこそが彼女への一番の供養のはずです」

僕はその言葉を聞いて立ち上がった。楽しむこと。彼女が教えてくれたこと。彼女にはもう二度と会えないけれど、楽しむことならできる。

僕はうつむいていた頭を上げて、空を見た。そこには去年と変わらない、でも全く違う花火が、いろとりどりに咲き誇っていた。