黄昏のクジラ


人間とクジラが分かれたのは、8000万年ほど前だという。一度海を離れた動物は、かたや陸を闊歩し、かたや再び海に戻った。そんな何もかも正反対に見える中で、高度な知性だけはどちらも独立して獲得したのである。

ところでクジラとイルカは進化的な分類はなく、サイズの違いだけで決まるという。つまり、あの生き物も、明らかにイルカに見えたが、ある意味クジラなのかもしれない。少なくとも私はそのとき、クジラと呼んでいた。

薄暗く巨大なプールの中。体育館くらいの広さと高さはある。黄ばんだ光が差し込んではくるが、今は夕方なのか、朝方なのか、それもわからない。生暖かい温度の水が揺れる。

私はその隅の、人一人歩けるかという幅の足場に立っていた。そんな私に寄り添うかのように、目の前を"クジラ"が泳ぎながら往復する。

私がクジラに気づくと、クジラは私に勢いよく水を噴き出してきた。私はびしょ濡れになるが、不思議と不快感は覚えない。それどころか濡れているという感じもなかった。クジラはその後も、私の前を往復し続けた。私も逆に往復してみた。すれ違うたびに、水をかけてくる。

しばらくそうやっていたが、やがて私が立ち止まると、クジラは水面から顔を出して、私を見た。私はしゃがんで、水面の近くに手を開いてかざした。クジラは口の先を私の手に当ててきた。芸もできるみたいだ。

「お名前は?」私はそう尋ねていた。 クジラは、高い声で答えた。「まる子」とも「ルリ子」とも聴こえた。そして私はまた手をクジラの口に触れさせた。

クジラはまた往復して、水をかけてきた。とても楽しそうに見えた。けれども私は、そろそろ飽きてきていた。それに、この広いけれども閉ざされた空間に不安を覚えるようになっていた。

一瞬、知らないおじさんの後ろ姿が見えたような気がした。すると私は、ここから出なければいけないという衝動に駆られた。水から身を乗り出したクジラの体を、私は、そっと押しのけた。

つもりだったのだが、クジラの体は、ありえないくらい軽かった。クジラは跳ね飛ばされて、近くの壁に強く打ち付けられた。そして水に落ちる。

よくないことをしたと思って、急いでここから出ようとした。足場が悪い中、壁を伝って歩く。ところが途中で足場は坂になっていて、その坂はそのまま水につながっていた。勢いで通り抜けようと思ったが、やはり足を滑らせてしまった。幸いにも水中の浅いところに足場があり、溺れることはなかったが、クジラが再び私に近づいてくる。

怒っていないかな、と心配していた。だがクジラは相変わらず友好的に近づいてきて、私はまた手をその口につける。私は安心して、ゆっくり上がろうと体勢を整えていた。

はっきりと、こう聞こえた。

「コロス」

クジラは体を突き破る勢いで、私に突進してきた。