カエルのペペになってでも


インターネットで何かを作っている人は必ず、フリー素材を使ったことがあるはずだ。そして律儀な皆さんは利用規約もちゃんと見ている人も多いだろう。

その中に、しばしば以下のような文言が書かれる。「アダルト作品への使用禁止」「政治・宗教に関わる利用禁止」といったものだ。これはあまりに色んなところに書いてあるから、当然だと考える人も多いだろう。

しかし、それらが「フリー」という言葉を冠することを考えると、微妙な気分になる。

「フリー」ソフトウェアの定義のうちの第0の自由には「どのような目的に対しても望むままに実行できること」とある。この「どのような目的に対しても」の部分が何よりも重要である。それは文字通りどんな目的でもである。例えばサイバー攻撃や詐欺、ひいては大量破壊兵器での使用も自由ということである。

そんなの良くないだろ、という声が聞こえてくるようだ。しかし、これが実際に問題になったことがある。JSONという、Webをはじめあらゆる場所で使われる情報交換フォーマットがある。そのライセンスに、「The Software shall be used for Good, not Evil.(このソフトウェアは善のために使われるべきで、悪のために使われるべきではない)」という文言がある。これは先のフリーソフトウェアの定義も、似て非なる概念であるオープンソースの定義も満たしていない。これはソフトウェアライセンスの悪例として扱われている。(実際にはJSONフォーマット自体にこのライセンスが適用されるかどうかは怪しいらしいが)

それが本当に「フリー」だと言うならば、悪いことにも使えるべきである。なぜって、ある利用が善か悪かを決めるのは、その著作権が作者に帰属している限り、最終的には作者だ。つまり1人の人間がすべての裁量を持っていることになる。これは危ういのではないのか? あるいは法令違反など、より客観的な根拠を導入したとしても、国家や企業による弾圧が簡単にできてしまうのではないか? 政治団体、権利団体がこれは悪だと主張したら? キリがない。

もちろん、巷にあるフリー素材すべてに対して、悪いことに使ってもいいと言っているのではない。私が言いたいのは、フリーを称するのであればそれなりに考えを持つべきだし、使う側もそういう意識を持つべきだということ。

実はソフトウェア以外でも、クリエイティブ・コモンズ(CC)ライセンスはこのような性質を持つ。つまりCCライセンスのついた作品は、「NC(商用利用禁止)」のようにライセンスに明示的に書かれた禁止事項を除き、どのような目的で使用することもできる。もちろん悪いことにも。これは私見だが日本でクリエイティブ・コモンズが下火なのはこのことも関係しているように思う。日本人は可能な限りリスクを避けたがるからだ。

私は、自分の作品を原則としてCCライセンスのもとに提供している。つまり、それらがどんな目的で使用されても構わないと考えている。もちろん、悪い目的で使われたいと積極的に願っているわけではない。そんなのは嫌に決まっている。でも、それは”私の”自由であり、”作品の”自由ではない。私の想定を逸脱する利用が許されないのであれば、作品の可能性は著しく制限されてしまう。そういう思想のもとにCCライセンスを採用しているのだ。

フリーであったからこそ、誰もが読んだことのあるWikipediaは存在できた。インターネットの一大創作宇宙であるSCPは発展した。そして何より世界中のサーバー、スマートフォン、火星探査機に使われているLinuxは世界の情報技術を支えることができたのだ。その中には作者が想定もしない利用がたくさんあったに違いない。そしてそれが許されるかどうかを作者がたとえ暗黙にでも決めていたのだとしたら、そのうちのいくつかの、あるいは多くは存在しなかっただろう。

リスクとして最もわかりやすいのは、作品がプロパガンダや大衆扇動に使用されることであろう。有名な例にカエルのペペがある。もともと普通のキャラだったぺぺは2015年頃からオルタナ右翼と結びつけられ、人種差別的なミームの象徴となってしまった。これは憂うべきことだが、それは一つの側面でしかない。実際その後香港の民主化デモで用いられ、作者はこれを歓迎しているし、近年ではポジティブな文脈で使用されることも多いようである。それも自由があったから、と言うのは結果論かもしれないが。

いずれにせよ、私は作品の自由は何よりも大事だと考える。それがたとえカエルのペペになってでも、私は自由を「保護」したいのである。