1億円の音楽


かつて、若者全員を熱狂させた、伝説のロックバンドがあった。ボーカルの圧倒的なカリスマ性、ギタリストの強烈な個性、堅実なベース、力強いドラム。

残念ながら、このバンドは5年と持たず解散した。原因は、ギタリストの失踪。人気絶頂のさなかだった。これはSNSなどでも話題になり、最終的に残ったメンバーは解散を発表した。解散後、一部のメンバーは独自に音楽活動を続けたが、あまり注目されていないというのが正直なところだった。

ところがその20年後、事件は起きた。このタイミングに至るまで身元が分からなかったそのギタリストの名前を名乗る人物が、SNS上に突然現れ、配信プラットフォームのリンクを投稿したのである。そのリンクをたどると、彼が作詞作曲・全パートの演奏を行った新曲のデータが販売されていた。

特殊な点は2点あった。一つは、その販売価格が日本円にして1億円であったという点。もう一つは、概要欄に大きく「私は、この曲について、手にした人による複製、改変、無改変、配布、そしてもちろん販売、すべてを許可する」と書いてあったことであった。

これは当然、話題になった。伝説のアーティストを伝説たらしめていた原因そのものが帰ってきた。そして、何やら特殊な試みを始めているらしいぞ、と。その曲は「1億円の音楽」と呼ばれ、誰もが知るところとなった。音楽雑誌では懐古趣味的な特集が組まれ、多くのCDショップでそのバンドのコーナーが設けられた。

多くの人は、そのアカウントが本人であるということに懐疑的だった。それでも大きなニュースになった。いろいろと記事が書かれ、これはアートパフォーマンスだとか、それにしては既存の事例の域を出ていないとか、概要欄の条項は、購入者の倫理観をためしているのだとか、あるいはたんなる宣伝のための話題作りであるとか、評論家たちの格好のネタになった。

1億円という価格は、一般人には到底手が出ないものだった。それでも、買う人はいたようだ。アーティストページが更新され、「Thank you!」という文字が追加された。これは誰かが曲を購入したことをしているとして、またニュースになった。まもなく、SNS上で購入者が名乗りを上げた。ITビジネスの成功者であるという彼/彼女はこの曲について、「間違いなく彼(ギタリスト)の曲」とし、「革命的」「音楽の歴史を変える」と評しつつ「一聴しただけでは、その真の価値は分からないかもしれない」とも語った。これによってその曲を聴きたいという人がさらに増加した。

しかし、その後の進展はしばらくなかった。他にも購入者がいたかもしれないが、少なくとも名乗り出ることはなかった。「配布が許可されているのだから、公開しても問題ないはずだ」と主張する人も多かった。これがその曲だとするものもいろいろ出回った。そのたびに例の購入者が「それは偽物」と言った。

それは突然起きた。例の購入者が、その曲を販売すると言い出したのだ。価格は2000万円。これにより、購入を検討する人が少し増えた。一方で、この販売には倫理的な問題があるとする声も上がった。オリジナルの作者が販売を明示的に許可しているのに問題も何もないという声が大きかった。それでも一部の勢力は、長い目で見て業界に損害を与えるなどという主張を行った。

「Thank you!」以後、オリジナルがアクションを一切起こさなかったため、複数の個人や団体が、この「一次」購入者から2000万円で購入し、再販売を行うことを宣言した。その中にはレコード会社も含まれていた。

この段階になって、久々にオリジナルに動きがあった。販売価格が1500万円になっていたのだ。これにより、価格競争がはじまった。少しでも安いところで買おうとする人々。その一方で、オリジナルから購入する人も多かった。本物かどうかわからない、あるいはあの伝説のバンドにかつていた憧れの人を支援したいという理由からだった。

自分でも同じ事が可能なのかどうか「試し」始めるアーティストも数名いたようだ。

元メンバーたちは、レーベルと共同声明を出した。おおむね以下のような内容だった:

最近、かつて我々が所属していたバンドの元ギタリストを名乗る人物の行動が、インターネット上で話題となっている。しかし、我々は未だに彼と連絡が取れていない。つまり、当該アカウントが元ギタリスト本人である証拠は我々の知る限り存在しない。ファンの方々にはそのことを理解したうえで慎重な行動をとってほしいと考えている。また、彼の行動に関連して、さまざまな議論が起こっていることは承知している。議論が深まっている状況は悪くないが、時期尚早な行動には出ないでほしい。著作権侵害は、法に基づいて厳正に処罰される。最後に、解散後も愛し続けてくれている長年のファンに感謝する。

どこかの段階で、その音源がSNS上にリークされた。リークと言っても正当な配布ではあったが。この時のオリジナルの販売価格は8000円ほどで、他の販売者ももう少し低いのもあったが大体そんなものだった。ただ、中には広告入りの無料公開をしているサイトもあった。この段階で、価格は暴落していき、ほとんどのサイトは公開停止もしくは無料公開を始めた。だが、唯一オリジナルだけは、300円の販売価格を保った。

そのアーティストは、その曲が今でも売れているかについては語ろうとしなかった。ただ一つ言えることは、そのアーティストは今も同じ方法で曲をリリースしていて、それが10年も続いていることだけだった。